「ル・コルビュジェ_諸芸術の綜合1930-1965」
「戦後西ドイツのグラフィックデザイン モダニズム再発見」
の2つの展覧会を観に行った。
ハンス・シャロウンのベルリン州立図書館とも同時代であり、先日シンポジウムの内容からさらに広がって深められるような内容だった。

コルビュジェの展示の最初の部屋は「浜辺の建築家」ということで、有機的な自然物に発想を見出そうとするコルビュジェのデッサンなどが紹介されている。比較的晩年のものと思いきや1930年代前後のものもあるので、機能主義的なことを提唱しながらも同時にそうした興味を潜在的に持ち合わせていたのだろう。先日のシンポジウムでの「有機体は内部の生きんとしようとする力が形になっている」というヘーリングの言葉が思い起こされる。
そうして続く展示を観ていくと、画家・コルビュジェとしてのピュリスム絵画や彫刻作品が並び、そんな潜在的な興味に合点がいってくる。貝殻や女体をモチーフとした曲線にうねりに膨らみ、そこに規則正しい人工物や機械が同居して同化する。
建築の3大巨匠であるけれど、同時にピュリスムの一巨匠でもあったということ。建築家であり芸術家でもあったということ。
そこにコルビュジェの稀有さというか、二重性があるのかもしれない。

そして同時代のピュリスム・キュビスム絵画と比較してみると、コルビュジェの絵画の線はどこか建築の平面図の線のようでもあるし、その線は全ての輪郭に外形線として入るのではなく、入ったり入らなかったり、区切りを表したり模様を表したりと絶妙な使われ方をしているのがわかる。
線が閉曲線になるのではなく開曲線で、異なる色彩の境界がその間に入り込んできて内外の境界を曖昧にする。
どこからが内でどこからが外か、どこからが自然物でどこからが人工物か、そんな区別はなくなり抽象模様的な1枚の絵になる。建築作品としては今回唯一の展示物となったロンシャンも相まって、そんな姿勢を感じた。
そして展示の締めに選ばれた言葉は「やがてすべては海へと至る。」。

対して西ドイツのグラフィックデザイン展の方ではまた違う種類の「線」があった。
ドイツのグラフィックといえばDINの規格であったり、FuturaやDINといったフォントのタイポグラフィーであったりと、そのフラットなシャープさに学ぶところも多い。
ここでのタイポグラフィーは極めて万能だ。画竜点睛の如く必要情報を伝えつつも紙面を締めて規格化するタグのようにも、時にはタイポグラフィーそのものがメイン図像のように使われることもある。色を変え、透明度を変え、それらの配置だけで観るものを惹きつけてしまう。

ここでの線の役割は紙面全体を分割したり、枠をつけたりする、いわばガイドラインである。
ただその役割をタイポグラフィーの方が担っている展示物もいくつかあった。
タイポグラフィーが時としてタグとなり、色彩となり、またガイドラインともなりうる。
そこでは「規格化」という精神が徹頭徹尾通されていた。
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