Politics of Stattbibliotek zu Berlin
2025年3月7日、emergence aoyama complex | mosaicの展示会場は中央のベルリン州立図書館全体の1/50の巨大模型を登壇者も聴講者も皆で囲うよう席で埋まった。
最初に学生による展示・研究のプレゼンがあり、ベルリンからオンラインにてCarsten Krohn氏の基調講演へ。
基調講演のタイトルは「ベルリン州立図書館のポリティクス」。
この建物はただ実用のための建物というよりは、一種の建設されたマニフェストであると氏は論じる。
シャロウン自身が発明した言葉としてStattlandschaft(=都市のランドスケープ)がある。
そのように見るならば、州立図書館はいわば「建てられたランドスケープ」である。
彼がどのようにこのアイディアを育てたか、スライドは初期の住宅作品へ。

1933年頃、ドイツには全体主義がはびこり、ベルリンにとどまったシャロウンの元に大きなプロジェクトはなく細々と個人住宅の設計を手がけていた。小さな住宅であっても、シャロウンはそこに当時の反モダニズム、反有機的建築の政治・社会情勢に対する反論を込めた。
当時は個人の住宅であっても規制が厳しく、フラットルーフすら認められず全て勾配屋根で同じようなものしか許されなかった。
しかし建築内部となると話は別で、シャロウンは比較的自由にデザインすることができた。
外見は勾配屋根の普通の住宅でも、内部ではその屋根はテントのように時として曲面すら帯びた覆いとなり、しばしばリビングの中心には集まるための大きなソファがデザインされ設えられた。
シャロウンにとって重要なのは外観ではなく内部であり、外観とはその内部の表出であった。こうしたことがその後のフィルハーモニーや州立図書館へもつながっていく。
例えばフィルハーモニーでは、道の真ん中で誰かが歌い出し自然と周りに輪ができるというのがそのアイデアの原初であった。
都市という視点では、こうした住宅設計のかたわら、未来の都市像のためのユートピア的なドローイングをシャロウンは残している。
そして終戦を迎え、廃墟となったベルリンでは西ベルリンを主体として復興デザインのコンペなども行われたものの、それは東西ベルリンの分断によって実現はしなかった。
州立図書館、フィルハーモニー、新国立ギャラリーが並ぶKulturforumで、シャロウンはそれぞれの建物が孤立するのではなく都市空間の中でユニティを形成するように構成した。
計画されていた高速道路から守るように図書館の閉架図書タワーを立ち上げ、Kulturforum側にはミースの新国立ギャラリーと共に開けた谷を形成するように基壇と大きなフラットルーフの構成を作った。
州立図書館の内部は立体的に構成された都市的ランドスケープの空間が構成され、その外部も他の建築とともに都市的ランドスケープを形成している。こうしてシャロウンはStattlandschaftを形にし、それは来るべき時代の都市空間へのマニフェストであった。
近代建築における「機能」論争
後半は対談へ。
富永讓は近代建築のもう一つの可能性としてのハンス・シャロウンの重要性を語った。
1928年のCIAM宣言で特に論点となったのが建築の「機能」であった。一方に社会の問題、生産の問題に「機能」を見出したW・グロピウス、ミース、コルビジェという一派がおり、もう一方にフーゴー・ヘリング、ハンス・シャロウンという個人の経験の問題に「機能」を見出した一派がおり、激しい論争が行われた。
結果として前者の主張が歴史的、古典的、形式的なものを正統に受け継いでいるとして社会に認められ、後者は歴史の裏街道へと追いやられた。
しかしコルビジェは当時先を見据えて前者の立場を取りつつも、晩年にはロンシャンやラトゥーレットの作品において後者的な人間に依拠した「機能」へと近づいていったのだった。

その建築にとっての「エッセンス」をつかまえろと、シャロウンはよく語っているという。
エッセンスとは、ルイス・カーンにとっての「ホーム」とも近い概念である。
有機体は内部の生きんとしようとする力が形になっている、とはへーリングの論だが、シャロウンは建築にとってのエッセンスとしてこれをとらえ、形にしていった。
学校にとってのエッセンスとは集落のように集まるランドスケープであり、劇場にとってのエッセンスとは真ん中で演奏する音源をめぐるランドスケープであり、図書館にとってのエッセンスとは本をめぐるランドスケープであり、というようなことを直感してつくることであり、それこそがシャロウンにとっての「機能」であった。
人工空間における生態系・都市のランドスケープ
西沢立衛はカールステン氏のレクチャーで語られたStattlandschaft(都市のランドスケープ)に着目する。
ゲーテが「イタリア紀行」の中でヴェローナのコロッセオのでき方について説明するのだが、真ん中に大道芸人がいて皆が周りに集まってくる、遅れた人は椅子を持ってきて第二列へ、さらに遅れてきた人は肩車なり梯子なり台なりを置いて、輪ができていきコロッセオのような人間の立体的な地形の渦を見る、それを建築の原型の一つとみなしている。まさにそれと同じことがベルリンフィルハーモニーでも起きている。
「「都市のランドスケープ」と言った時に、都市は人工物でランドスケープは自然のもの。都市や広場という人工物の中でどのような自然な動き、自然な場の発生があるかという、人工物の中におけるある種の生態系を考えた。そこで彼が着目したのは1つが人間の力であり、1つは地形だったのかなと。コロッセオのような地形、立体化が必要になってくる。ベルリンフィルハーモニーのような地形が出てきて、図書館でも谷とは単純にいえないような「通り」をつくる。そして階段やスラブで上らせ、明らかな地形をつくる。人間の生態系、空間におけるムーブメントに相応しい地形をつくるということ。」
人工物と自然、都市と人工的地形、そして場の発生と生態系。こうしたキーワードから非常に多層的な建築の世界が見えてくる。

またそこに西欧社会ならではの「劇場都市」の考え方を指摘する。
民主主義、市民社会ということが根底にあって、ベルリンフィルハーモニーに行けば「ここには王様も庶民もない」と案内され、ベルリン州立図書館でも立体的に席があって「生命の木」のような場所が人間の中心になっていく。
「シティランドスケープというのは人工空間における生態系の姿であって、来るべきデモクラシー、市民社会の表出だと思う。」
市民社会の表出の場としての都市空間、パブリックの形、シティランドスケープ、こうした政治と都市空間の密接な根付きとつながりは西欧社会ならではで非常に歴史的だと、講演後西沢さんが語っていた。

ここまでを通して、シャロウンという断片化された建築家、それは戦後ベルリンという混迷の中でいろいろ分断されたり棄却されたり歴史という意味でもそうだし、近代建築の正統でない裏街道に押しやられたという意味もあるのだが、そのいろいろな謎がベルリン視察、学生による模型や研究、カールステン氏のスライド、富永さんや西沢さんのコメントによって相互に補完されつながり明らかになっていく過程を見た気がした。
日時:2025年3月7日
会場:emergence aoyama complex | mosaic
登壇者:妹島和世、富永讓、西沢立衛、Carsten Krohn(オンライン)、大西麻貴(モデレーター)
文責;砂越 陽介
写真:1枚目のみ小田切駿、その他は文責者
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