2019-2022という特異な時代
2024年の今において冷静に振り返ると、2019-22年前後というのは非常に特異な'時代'だったと言える。
言うに及ばず、COVID-19に世界中が振り回された、ちょうどその3年間のことだ。
活動は制限され、経済は止まり、多くの人にとっての人生の時間が不本意な形となった一方で、この'時代'は都市を内省する上ではとても可能性に満ちていたとも言える。
これまで我々が過ごしてきた都市が本当にこれで良かったのか、その都市にある建築は今の時代に本当にそれで良いのか、そんな都市を前提とした働き方や娯楽が本当に良かったのか、そして我々は本当にこれから先もこれまでと同じような都市や建築を再生産していくだけで良いのか、誰しもがそんな本質を考える時間を与えられた。
アーバニストという希望
『アーバニスト-魅力ある都市の創生者たち』中島直人・著 が刊行されたのは2021年11月。
ここで「アーバニスト」なる新語が登場する。
アーバニストとはある専門性を持った都市生活者、さらに転じてその専門性を活かしながら主体性を持って都市生活を楽しもうとする人々と説明される。
私がこの言葉と存在を知ったのは、2021年の秋に一般社団法人for Citiesが池袋・ニシイケバレイで初開催した「Urbanist Week」でのことだった。それはイベントなのか展覧会なのか祭りなのか、はっきり言ってなんと言い表したらよいかわからないものだった。
インドネシアの三輪タクシーが路地を走り、古民家のギャラリーには建築デザイナーからイラストレーター、服飾リペアラー、コンポスト研究者、多国籍料理家、専門も国籍もてんでバラバラな人々が「都市」をテーマに様々なテーマの展示やワークショップを繰り広げる。朝には街のゴミ拾い交流会、夜には屋台を引っ張ってゲリラ的に繁華街に出没したり、街の「だめ・残念」な部分に突っ込むツアーで歩き回ったり、駐車場で映画上映をしたり、都心の真ん中でキャンプファイヤーしながらラジオ収録したりなど、今から思い出してもカオスで夢のような風景があった。
2021年といえば前年の繰り返される緊急事態宣言で繁華街が死滅し、空きテナントだらけのころ、都市としては傷だらけの状態だったと記憶している。
そんな傷だらけの都市を、編んで縫合し、元通りにはならないけどしなやかに美しいパッチワークの都市へと編み直していく、なんかそんなパワーと可能性をこのアーバニストには感じた。
つまりポストコロナの都市や建築は、こうしたアーバニスト主導で作られていき、それは元あった都市より暮らしやすくレジリエントで楽しいものになりそう、そんな予感を覚えたのである。
ポストコロナ-守旧的大規模再開発とアリバイづくり
そしていざコロナが明け、都市の「復興」が急ピッチで進みどうなったか。
2024年現在、端的に言うと「アーバニスト」に当初あった瑞々しさや希望は死につつあるように思う。
都市への投資と開発は、コロナ禍で抑圧されていた分を取り戻そうとするが如く勢いよく噴き出し、オフィス床・テナント床と賃料から手っ取り早く弾き出される「効率的」で安普請なスクラップアンドビルドが進む。その様は高度経済成長で高層ビルだらけになった西新宿一帯さながらである。高度経済成長といえば大阪万博もまさにそれで、巨額に見合わないひどく安普請な会場が急ピッチでできつつある。
そう、一言で言ってしまえば時代錯誤以外のなにものでも無い。高度経済成長でもないのにこんなものは必要ないし(そもそも数年後誰がその維持管理をするのだろう)、そこまでの金額をかけられるならもう少しマシな質の高いものができるはずだ。そんなことは一般大多数の人が薄々気づいているのに、一部の人々の安普請な守旧的高度経済成長幻想が思考停止したブルドーザーのように疾走しているのだ。
そんなディベロッパーも、SDGsとか地域とかを時代柄避けて通れないという部分はあるようだ。(それでもその信号すら無視して平気で突っ走る業者が多数の印象なので、まだマシな例なのかもしれないが。)
床と賃料と安普請の枠組みは譲れないとして、その足元に少しだけ賑やかしが欲しい。
そこで「アーバニスト」的な記号が、賑やかしのトッピングとして駆り出されているのである。
建物は我々が作るから、足元の殺伐とした広場でソフト的な賑やかしを君らセンスの良い若いコンサルで適当にやっておいてよ。SDGs的なマルシェをやりましょう、通行人が憩えるグリーンとファニチャーを置きましょう、DJイベントをやりましょう、洋服のリペア・リユースをやりましょう、ほらいいでしょ、すごく地域のため、SDGsのためになってるでしょ、とでも言うように。
それははっきり言って、守旧派によるアリバイづくり以外の何者でもない。しかし現状はそんな形で取り込みが進み、守旧派の思惑のままに進んでいるように見える。
かくして、「アーバニスト主導で進むレジリエントで主体的で楽しいポストコロナ都市像」という希望は、単なる私の幻想でしかなくなった。
ある意味では私がそこに過大に期待を込めすぎたのかもしれないし、当のアーバニストに聞いたらそこまで大それたことはそもそも考えてないと言われるかもしれない。
けれどやはり自分は建築家として、アーバニストが守旧派のアリバイ作りのための奴隷と化してはダメだと思うのだ。
今都市で進んでいることはあまりに酷すぎるのだが、健全で真っ当な考えを持つ実行者(レジスタンス)が増え、少しでも状況が変わることを切に願う。
Comentários