<公衆の学習とネットワーク>
技術と学習を公衆化する。
言い方を変えれば産業のオープンソース化である。
現状の産業の一方的で独占的な生産→消費のスキームの上にかけられているのと同じコストで、公衆が技術と学習にアクセスできる仕組みは十分に作れるということが述べられている。
p158-l9
現在、資本主義諸国で広告に費やされているお金は、もしそうしようと思えば、
それらの会社によってなされる教育の費用に用いることもできる
日常の操業や活動が公衆の学習を可能にするような方法で、公衆にもっと利用できるように再組織されるべきなのである。
その公衆化のモデルをイリイチは「銀行」と表現している。
そしてその運営方法をコンピューターへの記録と公開という方法で記載しているが、幾分アナログに感じられるのはこの本が書かれた当初が1977年だったことに起因するのだろう。
p166-l7
それよりも、はるかに急進的な方法は、技能交換のための「銀行」をつくることであろう。
市民は誰でも、基本的な技能を身につけるための基本的なクレジットを与えられよう。
教育を他人に分かち与えることによって自分の教育を獲得するような、いわば、全く新しいエリートの出現が助長されよう。
p170-l10
仲間を選び出すネットワークの運営は、簡単であろう。
このネットワークの使用者は、氏名と住所および自分が仲間を見つけたいと思っている活動について記述することである。
コンピューターは、彼と同じ記述を打ち込んだあらゆる人々の氏名と住所を彼に知らせるであろう。
むしろ現代は、個人が自分の端末を持ち、それらがクラウドと連携され、さらには連携されたAIによるアクティブラーニングというところまで進んだ。イリイチが現代を見たら驚くかもしれないが、この1970年代に既にその前段をイリイチが予見していたと考えると、そちらの方がすごいことのように思う。
先に書かれた学びのための「4つのネットワーク」のうち、
2.技能交換、3.仲間選び、4.教育者のデータベース化はSNSが既にその役割を担っているし、1.教育的事物等をアクセス可能なものとする部分については簡単な情報だけであればgooglemapやホームページなどがそれを担えている。
これは上に書かれている「銀行」の役割そのものである。
こうしてみると、イリイチの「脱学校」構想の多くはITによりある領域では実現しつつある。
けれど圧倒的に足りてないのが、空間であり建築なのだ。
たとえ技能交換や仲間選びのための情報ややりとりがIT上で境界なく行えるようになったとしても、実際の技術交換や教育的事物参照を行うためにはまずそうした空間が必要である。
しかし多くの建築、たとえば技術交換であればそのまま学校や公民館、生涯学習センターが、事物参照であれば工場や空港、駅が、そうした活動を行える空間の造りになっていない。
つまり、「オープンソース」や「公衆化された学習」という新しい時代の概念が、まだ建築として表現をされていないのではないかということである。
建築という視点でこの「脱学校の社会」を読んだときに感じたのはそうした可能性であった。
下の抜粋「教育改革」の'教育'を'建築'と読み替えてみたとき、そこには現代の建築家が探究すべき新しい建築像・空間像が生まれてきそうである。
p187-l5
教育改革が次のような幾つかの目標によって導かれる必要がある。
一、個人または制度が
もっている教育的価値
のコントロールを廃止して、全ての人が事物を利用できるように開放すること
二、求めに応じて技能を教えたり実際に用いたりすることの自由を保証して、技術の分かち合いを開放すること
三、会を招集し、それを開催する能力
を個々人に返すことによって、国民の批判的、創造的な資源を開放すること。
四、既存の専門職業が提供する援助を期待するように義務付けられているが、個々人をそれから解放すること。
自分の仲間の経験から学び、
教師、指導者、助言者あるいは医師を自分で選ぶことのできる機会を与えること。
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